◇◇研究発表◇◇ 分科会B ≪自由テーマ?≫ (10:00−10:40)

横浜居留地におけるオペレッタ受容―オッフェンバックとそのライヴァルを中心に―

森佳子(日本大学)

 1855年頃よりオッフェンバックが創始したとされるオペレッタは、19世紀末に横浜外国人居留地のゲーテ座(パブリック・ホール)において外国人によって数多く上演された。1876年(明治9)にはすでに、アマチュアによってルコックの《アンゴー夫人の娘》が舞台で歌われた。またプロでは1886年(明治19)に来日したPetite Troupe Francaiseがかなり本格的な上演を行った。さらに横浜在留のアマチュア外国人グループは、有楽座や帝劇でもオペレッタを上演した。当然その影響を受けたであろう日本人は、このジャンルを当時のレベルで演奏可能な翻訳オペラのレパートリーとして選択し、帝劇では1915年(大正4)にプランケットの《古城の鐘》(コルヌヴィルの鐘)が、初めて省略なく3時間に渡って上演された。今回はこれらの活動を紹介するとともに、極東の地でこれらのオペレッタが上演可能であった理由について、作品とその流布の状況から明らかにする。


◇◇研究発表◇◇ 分科会B ≪自由テーマ?≫ (10:40−11:20)

「ポートフォリオBUTOH」構築の試みについて

小菅隼人(慶應義塾大学)

 デジタルメディアコンテンツ統合研究機構(文部科学省委託事業)共同研究プロジェクト「ポートフォリオBUTOH」〔小菅隼人・森下隆による共同研究〕について発表します。土方巽は「舞踏譜の舞踏」を構築的に成立させる過程で数多くの「動き」を創造しました。ここでいう「動き」とは、ムーブメント、モーション、ポーズの総称を指し、その数は、5000を優に超えると思われます。これらの動きの創造と組み合わせこそが土方巽舞踏の真髄ですが、さらに土方巽の特異性は、その動きを舞踏譜という詩語(詩的な言葉)で伝え、かつ、残そうとした点にあります。慶應義塾大学アートセンター・土方アーカイヴでは、舞踏譜をもとに、舞踏家にそれらの「動き」を実際に演じてもらい、ビデオ撮影し、その映像を舞踏資料として残すプロジェクトを「動きのアーカイヴ」として遂行してきました。今回発表のDMC「ポートフォリオBUTOH」は、この「動きのアーカイヴ」の実績を参照しつつ、初演の記録映像、舞踏譜、初演舞踏手が現存しているという点で貴重な研究題材である「正面の衣裳」(1976年)を取り上げます。本発表では、この研究プロジェクトにおいて考察を重ねてきた「動き」を記録・分析する方法・意義を中心に報告します。


◇◇研究発表◇◇ 分科会B ≪自由テーマ?≫ (11:20−12:00)

ジョージ・タボーリ・アーカイヴ資料にみる『記念日』の創作過程

    ―反ユダヤ主義に対するアイデンティティー・バランスの模索―

山下純照(千葉商科大学)

 ハプスブルグの帝国末期から瓦解後にかけてのブダペストに生育したユダヤ系ハンガリー人で、ナチス台頭後は英語圏に逃れた劇作家・演出家のジョージ・タボーリ(1914年〜)は、1971年、戦後長く仕事をしてきたアメリカを去り、ドイツ語圏に最終的な活動の場を移した。『人喰いたち』(1968年)、『わが母の肝っ玉』(1979年)、『記念日』(1983年)、『わが闘争』(1987年)といったホロコーストあるいは反ユダヤ主義の問題を扱ったその作品の持ち味は、ベケット(限界状況)やブレヒト(叙事演劇)の影響を色濃く受けながら、ユダヤ文化独特の風刺的な言葉遊びを生かす作風にある。他方80年代中葉以後ドイツ語圏の文脈のなかで、ユダヤ人との和解の記号としてのイメージが作られた兆候も指摘されている。今回の発表では『記念日』に焦点をあて、『作品集2』(1994年)所収版と、ベルリーンのアーカイヴ所蔵資料にみる創作過程を比較する。それによって、創作言語の問題も含め、タボーリにおけるアイデンティティー・バランスの模索がこの作品において内在的なものであったことを示したい。