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研究発表内容要旨 ●菊池あずさ(大阪大学) 「何も見えない目の物語」― 蜷川幸雄演出『リア王』(RSC. 1999)ロンドン&ストラッドフォード公演を巡って 1999年蜷川幸雄演出ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー(RSC)上演による『リア王』は、日本とイギリスでの評価が大きく分かれ、議論を呼んだ。だがそこでの議論は十分尽くされているとは言い難い。ここではこの上演を、主としてロンドン&ストラッドフォードでの主要な上演と比較しつつ検討を加え、シェークスピア上演史の中に位置づけたい。 蜷川がこの上演において設定したテーマは「何も見えない目の物語」であった。そこでまず、原作における「目」の解釈の可能性を踏まえたうえで、この上演のいくつかの場面、つまり、3幕2場、3幕4場、3幕6場、そして最終場のリアの死の場面を取り上げ、その演出を分析したい。またこの上演は、ロンドンとストラッドフォードとで演出が大きく異なったという事実を踏まえ、それら二公演への推移に照明を当てることで、蜷川の理念とその問題点を明確にしたい。 ●神山 彰(明治大学) <「芸談」の消失と研究の想像力> かつて演劇の記憶や研究を富ませ、生動感を与えた水源だった、演者、観客、関係者の回想や「芸談」の水脈が絶え、資料、文筆好きの気質の演劇人も少ない。やがて演劇は完結した「作品」として語られ、記憶を活写する継承者ないまま「意欲的で新しい解釈」と映像記録の山だけが残る風景を呈すだろう。「芸談」と研究の関わりを再検討したい。 ●田尻陽一(関西外国語大学) 夢の演劇――『人生は夢』と『邯鄲』をめぐって―― 「人生は夢」ということばを聞くと、日本人は厭世的な人生観を思い浮かべる。「邯鄲の枕」など、その典型的な世界であろう。しかし、17世紀、スペイン・バロックを代表するカルデロンが書いた『人生は夢』では、主人公のセヒスムンドは、人生は夢であるからこそ、人は自分の意志で善行を働かなければならない。夢の中で空しい価値を追い求めるだけでは、泡沫(うたかた)のように儚(はかな)く人生は終わってしまう。それこそ、自分の人生にリアリティーがなくなってしまうと言っている。 そこには、「夢」というテーマに対する仏教とキリスト教の倫理観の違いを指摘できるだろう。そして、この「夢」を舞台の上で現前化した場合、夢をみる現場の空間把握の違いも指摘できるだろう。能の『邯鄲』、三島由紀夫の『邯鄲』などの舞台を元に、「夢」の上演について考察する。 |
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