2003年秋の研究集会
比較演劇の新視点
会期 12月6日(土)〜7日(日)
会場 成城大学(東京都世田谷区) ここ  

駅付近の食べるところは日曜でも開いています

図書館AVホール/7号館3階
プログラム
●12月6日(土) 午後
12:30− 受付 図書館AVホール
1:30−3 :00 招待講演
ジョゼフ・ローチ教授「世界銀行ドラマ」
Joseph Roach(Yale University)“World Bank Drama”
アメリカにおけるはじめての原住民ミユージカルの舞台をもとに、無形文化財としての演劇の研究方法を探る。ローチ教授は、アメリカの代表的な現代演劇研究者。
3 :00−3 :15 休憩
3 :15−6:00 パネル討論 7号館3階
「前衛演劇の東西、過去現在」
石田雄一(中央大学)、永田靖(大阪大学)、安田雅弘(山の手事情社)、日比野啓(成蹊大学 司会)
 前衛演劇とは何か、その研究の意義と研究方法、日本と欧米の違い、その理由、過去現在、等々の問題を比較演劇的に考察する。
6:10−8:00 懇親会 7号館地下
●12月7日(日) 午前、午後
8:40− 受付 7号館3階
9:00−9:55 J・ローチ教授の講演をめぐる討論(英語)
J・ローチ、毛利三弥(司会)
7号館3階
10:05−12:30 研究発表(一人45分) *内容要旨は本ページ文末 7号館3階
1.菊池あずさ*(大阪大学)
何も見えない目の物語:蜷川幸雄演出『リア王』ロンドン&ストラッドフォード公演を巡って
*会員宅に郵送された研究集会案内にある「鈴木あずさ」は「菊池あずさ」の誤植です。
2.神山彰(明治大学)
「芸談」の消失と研究の想像力
3.田尻陽一(関西外国語大学)
夢の演劇 :『人生は夢』と『邯鄲』をめぐって
12:30−1:30 昼食
1:30−5:00 徹底討論:能、浄瑠璃、歌舞伎のドラマ
天野文雄(大阪大学)/内山美樹子(早稲田大学)/近藤瑞男(共立女子大学)/毛利三彌(成城大学 司会)
ドラマとは何か、ジャンルによる違いはあるか。日本の伝統演劇にドラマがないという俗説を粉砕する徹底討論
5:10 打ち上げ 7号館4階
参加費:800円(資料代含む)
懇親会費:2500円
秋の研究集会実行委員会(代表:毛利三彌)
〒157-8511 成城6-1-20 成城大学文芸学部
F:03-3482-7740 E:morimit@seijo.ac.jp
研究発表内容要旨

●菊池あずさ(大阪大学)
「何も見えない目の物語」― 蜷川幸雄演出『リア王』(RSC. 1999)ロンドン&ストラッドフォード公演を巡って

 1999年蜷川幸雄演出ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー(RSC)上演による『リア王』は、日本とイギリスでの評価が大きく分かれ、議論を呼んだ。だがそこでの議論は十分尽くされているとは言い難い。ここではこの上演を、主としてロンドン&ストラッドフォードでの主要な上演と比較しつつ検討を加え、シェークスピア上演史の中に位置づけたい。
 蜷川がこの上演において設定したテーマは「何も見えない目の物語」であった。そこでまず、原作における「目」の解釈の可能性を踏まえたうえで、この上演のいくつかの場面、つまり、3幕2場、3幕4場、3幕6場、そして最終場のリアの死の場面を取り上げ、その演出を分析したい。またこの上演は、ロンドンとストラッドフォードとで演出が大きく異なったという事実を踏まえ、それら二公演への推移に照明を当てることで、蜷川の理念とその問題点を明確にしたい。

●神山 彰(明治大学)
<「芸談」の消失と研究の想像力>

かつて演劇の記憶や研究を富ませ、生動感を与えた水源だった、演者、観客、関係者の回想や「芸談」の水脈が絶え、資料、文筆好きの気質の演劇人も少ない。やがて演劇は完結した「作品」として語られ、記憶を活写する継承者ないまま「意欲的で新しい解釈」と映像記録の山だけが残る風景を呈すだろう。「芸談」と研究の関わりを再検討したい。

●田尻陽一(関西外国語大学)
夢の演劇――『人生は夢』と『邯鄲』をめぐって――
                           
「人生は夢」ということばを聞くと、日本人は厭世的な人生観を思い浮かべる。「邯鄲の枕」など、その典型的な世界であろう。しかし、17世紀、スペイン・バロックを代表するカルデロンが書いた『人生は夢』では、主人公のセヒスムンドは、人生は夢であるからこそ、人は自分の意志で善行を働かなければならない。夢の中で空しい価値を追い求めるだけでは、泡沫(うたかた)のように儚(はかな)く人生は終わってしまう。それこそ、自分の人生にリアリティーがなくなってしまうと言っている。
 そこには、「夢」というテーマに対する仏教とキリスト教の倫理観の違いを指摘できるだろう。そして、この「夢」を舞台の上で現前化した場合、夢をみる現場の空間把握の違いも指摘できるだろう。能の『邯鄲』、三島由紀夫の『邯鄲』などの舞台を元に、「夢」の上演について考察する。