市川先生、いつかまた会いましょう
公開日:2024-04-12 / 更新日:2024-04-12
永田靖

市川先生、先日(4月9日)に市川先生の追悼会が大阪市内で行われました。清流劇場の田中さんや劇団大阪、AICT国際演劇批評家協会関西支部の皆さんが音頭をとり、たくさんの人が、劇団大阪ゆかりのスタジオ315に集まりました。私は日本演劇学会から追悼文を書くようにと申し出があり、お引き受けしたのですが、どうしても書くことができず、締め切りから2ヶ月を超えてしまっていました。ですがこの追悼会に出たことでどうにかその覚悟ができたようで、今原稿に向かっています。
この追悼会で改めて思ったのは、市川先生は関西の演劇人の中で生活をされていたのだということでした。この会では関西の多くの演劇人があつまり、市川先生の思い出を一人ずつ話されていくのですが、ひとそれぞれに市川先生から受けた教えや恩、励ましや冗談まで披露されました。それを聞いているといかに市川先生が関西の演劇の中にしっかりとご自身の場所をお持ちになり、そればかりか多くの演劇人にさまざまな影響を与えていらっしゃったかがわかります。子供の頃にNHK大阪の児童劇団に入るほどの演劇好きでいらっしゃって、最後まで演劇への熱を冷ますことなく生き抜かれた、その姿勢に皆さんは感嘆と感謝の気持ちで一杯だったように思います。
私と市川先生との関わりは、1996年に私が大阪に来ると同時に入った日本演劇学会関西支部の活動からでした。当時関西支部には、近現代戯曲研究会という分科会があり、そこでのことだったと思います。今はなくなった旧東梅田小学校校舎が一般に貸し出されており、そこの一室を借りてこの研究会が開催されていたようです。菊川徳之助先生が幹事をされており、その研究会で初めて市川先生とご一緒させていただきました。その時の発表者は瀬戸宏先生で、その発表後の質疑の時に、瀬戸先生がいつものごとく現代演劇について手厳しい意見を述べられていたと記憶しています。その意見に対して、市川先生は「瀬戸さんの言うことはハードルが高すぎるんや」とその後何度も見ることになるあの温厚で和かな笑顔を湛えながらおっしゃったのを覚えています。当時鳥取から移ったばかりの私には、皆さんとほぼ初対面で、ただ皆さんのやりとりを聞いているにすぎなかったのですが、それでも市川先生のお人柄の一端には触れていたのだと思います。
私にとって、本格的に市川先生とのお付き合いが始まるのは、何と言っても大阪大学と旧大阪外国語大学とが統合した2007年からです。統合を機会に、当時の文学研究科に新しい専攻を作ると言う話になり、あれこれすったもんだの末に、「文化動態論専攻」という修士課程だけの、当時の文科省が推奨した必ずしも専門の研究者を養成するのではない、高度専門職をも目指す人材を育成する専攻を立ち上げたのです。それは4つのコースからなっており、その一つが芸術系の「アート・メディア論コース」といい、このコースに大阪外国語大学から3名の先生方をお招きして、加えて私ともう一人西洋美術史の人とが、大阪大学の方から加わって、総勢5名でスタートしました。そのお招きした一人が市川先生でした。このコースは従来の文学研究科ではない、伝統的な学問ではカバーしてこなかったような現代芸術の様々な題材を取り扱うところで、なかなかにヒットしました。毎年多くの受験生があり、私たちも勢い込んで各年で10人前後の院生を受け入れていました。当然ですが常時20人前後の院生を抱える大所帯となって、それはそれで大変でしたが、そこで市川先生は底力を発揮してくださったのは言うまでもありません。
市川先生を大阪大学にお招きするため、大阪外国語大学にご挨拶に伺った日のことはよく覚えています。なぜか他の先生とは違ってかなり大きめのお部屋で、巨大なモニターが設置されていたのを覚えています。部屋の場所も大ホールの隣で、他の先生方とはちょっと離れているのも印象的でした。その部屋で、あの温厚でにこやかな笑顔で私を部屋に入れてくださり、先細りの外大にいるより永田さんと面白いことをやっている方がいいと仰ってくださいました。そのようにして「アート・メディア論コース」でのお付き合いが始まりました。しかしそれだけに済むわけではありませんでした。私の本籍は「演劇学研究室」にありましたので、ドイツ演劇の大家に来ていただくのですから、演劇学研究室の方にもお力をお借りできるに越した事はありません。当然ですが、こちらにも兼任として加わっていただきました。つまり、2007年からご定年を迎えられる2015年3月まで、いわばふたつの研究室(コース)でずっとご一緒させていただいたことになります。
新歓コンパから始まって、共同で担当する演習の授業、夏の合宿、年に2回の大学院入試、観劇実習という劇場で観劇する授業、修論卒論の中間発表とその試問、予餞会や卒業式など連綿と続く研究室の行事のすべてに、私と市川先生は2つの研究室(コース)でご一緒をさせていただきました。授業ではもちろん、そのときどきの局面での市川先生とのやりとりは、私にとってそれは大いに勉強になりました。ドイツ演劇ばかりではなく、関西の演劇にも精通されているわけですので、私にとってそれがどんなにかためになったか、一言では言い尽くせないほどです。
長く諸局面にわたる仕事をさせていただきましたが、今となってわかるのは、おそらく私のことを完全に立てていて下さったことだと思います。演劇学研究室ではもちろん、アート・メディア論コースにおいても、修論の指導コメントから行事の運営方針などにいたるまで、私の言うことなすことすべてについて、一度も否定的な反応をされたことは記憶にはありません。逆にほとんどすべてを肯定的に受け止めてくださり、背中を後押ししてくださることがほとんどでした。「それはいい、ぜひやったらええ」「協力しますよ、やってください」など繰り返し繰り返し何度も頂いた言葉は、大きな意味で私の自信に繋がっていったのだと思います。
現職中に、実際に学外での演劇もなさいました。一番記憶に残っているのは、ご定年の年の2014年に演出された『ブレヒト・ハイ・スリー』です。これはブレヒトの『イエスマン』を学生たちに演じさせるものでしたが、実際に学生たちをドイツに連れて行き、ドイツの劇場で上演させるという大変なもので、さらにドイツ、アメリカと日本とにオンラインで繋いで、それぞれの場所での『イエスマン』をそれぞれの場所で、しかもライブ(リアルタイム)で視聴(観劇)できるという大掛かりなものでした。上演そのものが非常に良くできていて、学生の多くはプロの俳優ではなかったのですが、極めて高い質を醸し出していました。またコロナ禍でのオンライン上演など誰も想像しなかった時代に、3都市をオンラインで結んで上演伝送するという着想はもしかしたら早すぎた試みだったのかも知れないと思うほどです。あとになってから関係者に聞けば準備段階では相当のご苦労があったようですが、私にとって、この上演は私の経験したブレヒト上演の中でも決して忘れることのできないものになっています。
日本演劇学会としては2006年から理事としてお勤め頂いております。ちょうど大阪大学で事務局をお引き受けしていた頃ですから、多いに忙しかったはずです。それでもずっと学会にもいてくださいました。ご退職の後、大学の近くの石橋で飲むことが何度かありました。大阪市内の小劇場に行った時にたまたまお目にかかり、一杯ビールを飲んで帰ることもありました。「仕事がしたいなあ」と仰っていました。それを果たすかのように、昨年の12月に大阪で演劇を上演されました。それは見に行けなかったのですが、その前後にメールのやりとりをしており、年明けたらまたどこかで会いましょうと話していたところでした。お通夜の夜、東京からも山下純照さんなど来られて、阪大の関係者でお茶を飲んで帰宅すると、市川先生からの遅い年賀状が家に届いていました。通夜に来てくれてありがとう、永田さんももうしばらく頑張ってと言って下さっているようでした。
いつもずっと近くにいて下さった市川先生が突然いなくなられたと聞いても、とうてい信じることはできませんでした。ですが、先日の大阪での劇団追悼会で、市川先生にはもう背中を押していただくことはないのだということが、ようやく現実のものとしてわかったように思います。寺山修司は死の直前には「死ぬのはいつも他人ばかり」と言っていたそうですが、私にとっては「死ぬのはいつも身内ばかり」。身内のように、自分の立ち居振る舞いを叱ったり励ましてくれたりする人が亡くなっていくのは本当に寂しいです。どうしたらいいのだろう。市川先生、今度お目にかかった時に、どうすればいいのか教えてください。いつかまた、会える日を楽しみにしています。