追悼 斎藤偕子さんを偲んで | 日本演劇学会

追悼 斎藤偕子さんを偲んで

公開日:2022-03-18 / 更新日:2022-05-29

 

毛利三彌(成城大学名誉教授)

(斎藤さんは、ご結婚後、楠原姓になっていたが、演劇研究及び評論の分野では斎藤姓を変えられなかった。それゆえ、ここでは斎藤さんと呼ばせていただく。)

 斎藤さんとは、実に長いお付き合いで、京都の施設に入られてからもなんどかお訪ねし、お元気な様子に、また国際学会に一緒に行きましょうと話していたのだった。それが次第に弱られていったことから、ある程度の覚悟はしていたものの、それでも、昨年暮れに訃報を受けたときは、やはりショックを抑えきれなかった。しかも、長く続く新型コロナ感染拡大の状況の中、お葬式はおろか、晩年に洗礼を受けられたという聖公会の30日祭にも参列することができず、なんとも落ち着かないまま時だけが過ぎていく。

 斎藤さんは、周知のように、早くから演劇批評家として名を成し、若いときには「新劇」の編集部に属したこともあったらしいが、あとになってからは『テアトロ』の常連寄稿者として、あえて言えば、この演劇雑誌の支柱ともいえる存在だった。だが、わたしと斎藤さんの付き合いは、演劇研究において、そしてそれはおそらく他に例を見ない特別な研究仲間の一員としてだった。斎藤さんは若いころ俳優座の舞台部に入っていたことからもわかるように、演劇上演の実践面に深い関心を寄せ、それだから、60年代のアメリカで身をもって経験されたニューヨークの前衛演劇潮流の研究にむかい、他のだれも書くことのできないと思われる『黎明期の脱主流演劇サイト:ニューヨークの熱きリーダー1950-60』(2003)を出しているが、日本のいわゆるアングラ演劇の人たちとも交わりをもっていたようだ。だが、斎藤さんの演劇観の根底には、あくまで演劇を成立させるドラマの存在を重視するという見方があったと思う。わたしが長い間ともに研究活動をつづけてこられた第一の理由もそこにあった。

 もちろん、わたしとの付き合いは、斎藤さんの一面でしかないだろう。しかし、われわれの活動で特筆すべきは、やはり仲間と始めた研究会が主体となって開いた国際的な演劇研究コロキウムだといえる。もっとも、これについては、すでにあちこちで書いたり話したりしているし、そのときの参加者の多くが、いまや学会の中心ともなっているから、ここで繰り返す必要はないが、ただ、この国際会議のあらゆる点で支えとなっていたのが斎藤さんだったことははっきり記憶しておきたい。斎藤さんの古希のお祝いには、常連となっていた海外の著名な演劇研究者たちも集まってくれたが、彼らを今度はどこに案内しようかと相談したとき、斎藤さんが四国の金毘羅にある金丸座にしようと、即座に全員の飛行機の予約をとった剛担さには、わたしも驚いたものだった。このときの四国の旅は実に楽しく、みなが大満足だったが、コロキウムの発表でも、力作論文がそろい、それらを翻訳して本にしたとき(『演劇論の変貌』論創社、2007年)、斎藤さんの古希記念としたかったのだが、だめだと言われた。表に出ることを嫌がったいかにも斎藤さんらしかったが、わたしの定年退職記念の大学紀要には、喜んで寄稿してくれた。このころ斎藤さんは、『テアトロ』に、19世紀アメリカの娯楽劇のさまざまの側面を執筆連載していたが、広範囲な彼女の目の付けどころに、わたしだけでなくだれもが驚いていた。これは是非本としてまとめるべきだと勧め、出来上がった大著『19世紀アメリカのポピュラー・シアター:国民的アイデンティティの形成』(2010)が、世に高く評価されて多くの賞を得たのは嬉しいことだった。

 常々、斎藤さんはいささか働きすぎではないかと思い、ときに冗談交じりにそれを諫めてもいたのだが、わたしが演劇学会の会長だったときには、斎藤さんに副会長になっていただいたこともあるから、責任の一端はわたしにもあった。しかし、実は、斎藤さんは居眠りの達人だった。研究会で発表を聞きながらでも眠ることができ、それは無視ではなく、ちゃんと質問もできるということに、わたしはいつも感心し、これが彼女の健康法なのだと納得してもいた。斎藤さんは、あの細身の体で、しかも食もまた少ないにもかかわらず、まことに健康というか、体力十分だった。毎年の国際学会の集まりには必ず若い人たちと一緒に参加し、エクスカーションでも、わたしははじめから遠慮すると決めているような山登りにも率先して加わっていた。それは、彼女のあくなき好奇心のなせるところだったのだと思う。国際会議がストックホルムで開かれたときは、郊外の島をめぐるエクスカーションがあり、そこはストリンドベリが一時住んだことがあるので、斎藤さんとわたしも参加したのだが、雨混じりのぬかるみ道に閉口して、途中で引き返すものが続出した中で、わたしももう帰ろうと言ったけれども、斎藤さんはせっかくだからとストリンドベリが一時住んだという小屋まで歩行をやめようとしなかった。わたし歩くことには慣れているの、と涼しい顔で言う斎藤さんの健脚と好奇心には改めて脱帽したものだった。わたしは70歳を過ぎてからは、ヨーロッパ行きの飛行機はビジネス席で横にならないと耐えられなくなっていたが、たまたま同じ飛行機になったとき斎藤さんは、座って眠ることはちっとも苦痛じゃないと言ってエコノミーに席をとった。いや、このときの後ろめたかったこと!

 傘寿をすぎても、海外の会議に出かける斎藤さんには、向こうの研究者も驚いていたが、斎藤さんがその場にいると、すべてがスムーズに流れていくところがあった。それは彼女のゆったりした話し方だけでなく、発表に対する批判的論評でさえも、相手を思いやる気持ちがはっきりとわかったからだろう。それだから斎藤さんはだれからも好まれ、後輩たちから慕われていた。斎藤さん亡き後の研究会は、コロナ禍のこともあるが、なにか潤いを失くしているように思われてならない。しかし、あとはすべて、われわれに委ねられている。そう肝に銘じて、研究活動をつづけていかねばならない。

(毛利三彌)

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